(株)プランクトン

E-mail:
info@plankton.co.jp

ノート・マヌーシュ インタビュー

『ノート・マヌーシュ』発売記念!!
マディーノ・ラインハルト・インタビュー
聞き手:佐藤英輔

今年1月にチャボロ・シュミットとともにプロモーション来日したときに、マンディーノにノート・マヌーシュの話を語ってもらいました。聞き手は、音楽ライターの佐藤英輔さんです。

●ラインハルトというファミリー・ネームを聞くと、やはりジャンゴ・ラインハルトを思い浮かべてしまいますが。実際、偉大な彼と関係はあったりするのでしょうか?
「いいえ。それもよくされる質問なんですが、直接的な血縁関係はありません。ラインハルトという名前はマヌーシュのなかではとてもよくあるものなんです」

●あなたのグループ、ノート・マヌーシュは結成してどのぐらいになるのでしょう?
「最初の発端は93年に逆上ります。イタリアの音楽祭に招待されて、仲間たちと行ったことがあったんです。それで、そのときは別のジプシーのバンドを録音するという企画があって、主催者側は出演者の演奏をレコーディングしたらしいんです。そして、演奏を終えた晩に主催者がやってきて、メインのバンドではなく、より受けていた私たちのほうの録音を出したいと言ってきたんですよ。メインじゃない私たちのほうが目立ってしまって、とても気まずく感じたんですけどね。それで、その話を受けるか迷ってしまい、一晩考えたんですけど、私たちが悪いわけじゃないということで、話を受諾することにしました。というわけで、ノート・マヌーシュというグループ名で活動したのは、そのとき以来なんです。ただし、今に繋がるような感じになったのは96年以降のこと。それ以前はいろんな人が出入りしていました」

●それで、なぜノート・マヌーシュと名乗るようになったのでしょう?
「そのイタリアに行ったとき、ボローニャとフィレンツェでコンサートをやったのですが、そのとき名前を考えました。ノートというのは音楽のノートのことですが、さらにイタリア語では夜という意味があるんですよ。とても熱い夜をイタリアで過ごしたので、そういうダブル・ミーニングを持つグループ名にしました」

●最初はライヴのために偶発的に始まったグループだったようですが、その後そこからいろいろと音楽性が発展していったと思います。どんな感じで進化していったのでしょう?
「まず、93年に演奏したときはとても伝統的なマヌーシュ音楽をやっていましたね。私とアコーディオンのマルセル・ロフローは子供のころからの本当に長い友達で、音楽的にも一般の友達としてもずっと付き合ってきました。彼とは、スタイルを創造的に変えていくこと……、別の要素を私たちの音楽に取り入れて行こうということを話し合いましたね」

●その取り入れようとした新しい要素というのは、具体的にはどんなものでしょう?
「特にリズムの面とメロディの面で新しいものを入れようと、私たちは考えました。もちろん、それはマヌーシュ音楽を捨てるということではなく、マユーシュ音楽には尊敬の念を持ち、それを尊重しながらというのが前提にありますが」

●流浪の民族であるマヌーシュは生理としての自由さを持っていたり、異文化に触れることを恐れないというような印象があります。というわけで、マヌーシュとしての核にある自負が、新しいものを取り入れる方向を促すというところがあるようにも思いますが。
「偉大な先達であるジャンゴ・ラインハルトを引き合いに出したいのですが、彼はとても進歩的なミュージシャンでした。リズムの面でも常に進化を求めていましたし、いかに発展させるかということに神経を使った人です。もちろん、彼はエレクトリックな試みもしましたし、そのキャリアの後半においてはギターだけではなく、ピアノやドラムや管楽器を導入して音楽を作っていくことをしました。とにかく進化するということにおいては、アヴァンギャルドと言うに相応しい精神を持っていた人だと思います」

●そして、あなたもジャンゴ・ラインハルトが持っていたようなスピリットを自分なりに展開していきたいという気持ちを持っているのですね?
「いやいや。ジャンゴは巨大すぎて、そんなこと言ったらおそれ多いですよ」

●でも、ぼくはノート・マヌーシュの音楽を聞いて、とっても豊かで、いろんな要素が混ざっていて、ものすごく洗練されている音楽だと思いました。
「今、言っていただいたことは自分でもその通りだと思います。音楽は自然に我々のなかに浮かんでくるものなんですが、その奥には革新していくんだという精神を常に持っていますから。今のフランスでは私たちと似た傾向のバンドが出てきているんですが、私たちのやっていることをコピーしているという感想を持ってしまいますね」

●あなたはチャボロ・シュミットとやったりもしますが、ノート・マヌーシュがまずあなたのなかでは一番大きな部分を占める単位であると考えていいのでしょうか?
「そうですね。ノート・マヌーシュにはとても個人的な思い入れがありますし、それをもとに気心の知れたメンバーたちと音楽を作っていっているわけです。チャボロとやるときは、どちらかというと私は彼をサポートする立場なので、ノート・マヌーシュのときとは違います」

●今、ノート・マヌーシュは何枚アルバムを出していますか?
「2枚です。日本でも出る『ノート・マヌーシュ』と、かつてイタリアで録られたものですね。それはイタリアだけで出ています」

●それで、もう少しあなたのバックグラウンドをうかがいたいんですけど、やはり生まれたときから、すぐに横に音楽があり、自然にギターを弾きだしたという感じですか?
「それはとても自然なことでした。90パーセントのマヌーシュの家には楽器があるでしょう。部屋の壁にはヴァイオリンやギターが掛けられていたり、その隅に置いてあったり。もちろん、親も子供たちに楽器をやることを勧めますし、楽器を弾くことを良いこととします。でも、そこには強制というものは一切ありません。まずは、常に音楽の横には喜びがあり、楽しみがあるんです。楽器を弾く楽しみというものを家族のなかで習得していきます。まず、家族という単位があって、そのなかで音楽を発見していき、どんどん夢中になっていくという感じなんですよね。そして、そのあとににプロフェッショナルな道に進むという選択肢が出てきたりもするわけです。でも、それは後から出てるもの、まずは家族の団欒というのが基本にあるわけです」

●そして、いつの間にかプロになってしまった?
「プロになるのを、ある時点で決断したというよりは、自然になっていったという感じです。私は長年にわたって音楽をしているんですけど、段々と音楽の仕事が増えてきてしまったという感じでしょうか。私は音楽をやりながら他にもやっていることがあるんですよ。例えば、古道具屋はそうですね。それから、音楽を教えたりもしています。ただ、どんどん音楽の演奏の仕事が増えて、どこかでそっちのほうに集中するという段階が来たわけです」

●あれれ、古道具屋というのは映画『僕のスウィング』の役柄でもありましたが、実際にもやっていたんですか?
「実はそうなんですよ。映画のなかで、花瓶についての笑えるエピソードがありましたよね。あれは、本当に古道具屋をしていた私に起こった事なんですよ(笑)」

●出演は楽しみましたか?
「とても素晴らしい、素敵な経験でした。映画というのがどのように作られて、どう進行していくかという過程がとても面白く、興味を引かれました。ただ、映画が伝えている主題については、やはり真剣にならざるをえませんでした。マヌーシュという、差別を受けるマイナーな民族を題材にした映画、それをもとに外に働きかける映画ということにおいて、監督はとてもうまく作っていると思います。ええ、成功していますよね。もっとも、私たち音楽家もまた平和大使というような役割を持っていますよね。それは、マヌーシュではない民族/社会に対しての大使であり、言葉を変えるなら近代的でない社会から近代的である社会への大使というような役割を担っていると、私は考えています」

●それで、そんなあなたは音楽学校をやっているとも聞きますが、それはマヌーシュが築き上げてきた文化を受け継ぎ、次の世代に伝えてあげたいという気持ちからやっているのですか?
「それはとても重要な質問で、とても興味深い質問です。学校は1978年の10月に開校しました。ちょうどそのころ、マヌーシュ文化が消滅しかかっているように感じ、私はそれに対する大きな懸念を覚えたんですよ。それで、まさにあなたが言うように、私たちの文化を若い世代に引き継がなくてはならないと思い、学校を開いたわけなんです。最初はマヌーシュの子供たちだけを受け入れていましたが、ある段階からはマヌーシュじゃない子供たちも受け入れるようになりました。それは、子供たちがマヌーシュじゃない人達と出会ったり、彼らと何かを共有する機会を持つのは有益であると思ったからです」

●マヌーシュが築き上げてきたの文化の優れているとあなたが思うところを挙げてもらえますか?
「それを語るのは簡単ではありません。いい面も悪い面もありますけど、やはりルーツというところから話さなければならないでしょう。マヌーシュはインドを出自としてまして、10世紀から12世紀の間に現れたと言われていますが、正確なところは判りません。それから移動を重ねて、15世紀にフランスにたどり着いたとなっています。それをふまえたうえで、もっともマヌーシュ文化の素晴らさを語るに相応しいのは、“自由”という言葉ではないでしょうか?そう、自由です。それからもう一つは、生き残るために戦う意思を持っていることですね。常に私たちの民族は迫害されていて、その最たるものが第二次世界大戦のホロコーストだったわけですが、そうしたなか、社会の規範外のことろで私たちは生き延びてきたわけです。そして、そこには音楽から得る力もありました。各所を渡り歩くなかで、その土地その土地の音楽を吸収して、自由に自分たちの生活の糧にしてきたんです。そのことを考えると、やはり“自由”というのが我々の文化を特徴付ける言葉となるでしょう」

●今、自由という言葉が出ましたが、あなたたちの演奏はかなり即興性の高いものでもありますよね。
「そのとおりです。ただし、常に音楽には尊重しなければならないルールというものがありまして、それは無視できません。まず、テーマというものがあって、そのあとに自由な即興が来るというわけですね」

●ジャズなんかもけっこうお聞きになりますか?
「もちろん。ジャズは聞きますよ。クラシックも聞きますし、アストラ・ピアゾラのようなアルゼンチン・タンゴも好きです。とにかく、心に響くもの、繊細な心がこもったものが好きです」

●たとえば、ジャズのミュージシャンで好きな人は?
「うわあ、沢山いますよ。ジョー・パスでしょ。ウェス・モンゴメリーやタル・ファーロウ。フランク・シナトラのような歌手も大好きですね」

●ノート・マヌーシュの演奏は、ジャズの世界に食い込んでいける豊かな音楽性と即興性があると思います。もっと、ジャズのほうで勝負したいという気持ちはお持ちではないですか?
「そうですね。確かにマヌーシュ音楽を知らないジャズ・ファンにもアピールすることはできるかもしれないですね。新聞や批評家筋からもそう指摘されたりしますが、なんて言えばいいでしょうか。こればかりは、どうも……」

●ノート・マーヌーシュ表現のなかで、マルセル・ロフラーの艶ある演奏の占める割合は大きいですよね。やはり、彼のように弾ける人は少ないんでしょう?
「そうそう。そのとおりです。彼はもっとも偉大な、他に並ぶものがいないアコーディオン奏者です。というか、アコーディオン奏者という言い方に限定したくなく、私はミュージシャンとして彼は最高の存在であると思っています。音楽性や想起させるアイデア、そして彼は一流の作曲家でもありますね。彼は目が見えないので、とにかく耳で音楽を聞きます。それゆえ、彼は音楽に対する超越した感覚を持っているんですよ。当然のことながらマヌーシュ文化のなかで非常に有名な音楽家ですが、その外の世界でも彼に並ぶ音楽家はいないと私は考えています」

●演奏はかなりいろんなところに出掛けています?
「ますます、それは増えています。音楽をメインでやっていくという決断をしてからツアーの機会が増えましたね」

●今は何か国で演奏を勧めている?
「えっと、ポーランドがあって、ロシア、スペイン、ドイツ、イタリア、ノルウェー、マルティニーク……。本当にいろんなところでやってます」

●今回、日本は初めてやってきたそうですが、印象はどうですか
「やはり、とても違う文化があって驚いています。でも、重要なのはコミュニケーションを図ること。私たちが音楽をやっているということで容易に近づいてもらえますし、こちらも積極的に関係を持ちやすい。日本でどのように物事が動いているかを見るのがとっても面白いですね。予定が細かく分刻みで決まっているのはすごい。私たちはどちらかというと即興演奏者なので、そうしたカッチリと決まったものをなんとか崩そうと狙っているんですけど(笑い)、でも、それは本当に効率的なやり方だと言わざるをえないです。一方で、沢山の人からとても温かく迎えていただいて、その親切さ、優しさには感動しています。そして、それはマヌーシュ文化にも共通するものですね。私たちも客人を迎えたときにはもう親密な態度で接しますから」

●ノート・マヌーシュでまたアルバムを作るという予定はあったりしますか?
「今年、レコーディングすることは考えています。でも、別のプロジェクトについても検討してしいるんですよ。ヴァイオリン奏者と兄と、兄の息子とやるものなんですよ。あと、ベーシストも使います」

●ソニーの息子さんはギタリストですか?
「そうです」

●そのグループ名は決まっています?
「僕の個人名でのアルバムになると思います」

●そろそろ時間なので、インタヴューはお終いにしましょう。これからも、マヌーシュの素晴らしい文化を世界中の人達に伝えてくださいね。
「ありがとうございます。まさに今言われたように、私たちの文化を伝えていくというのが私の目的なんです」