The Chieftains
ザ・チーフタンズ メンバー・プロフィール

パディ・モローニ Paddy Moloney(ホイッスル、イーリアン・パイプ)

 1938年、ダブリン生まれ。チーフタンズの頭脳にして疲れを知らぬエンジン、敏腕のプロデューサーであり、戦略家としての才も並み並みでない。チーフテンズを世界でもっとも有名なバンドの一つに押上げるとともに、アイルランド伝統音楽のこんにちの隆盛を招来した一方の雄としての功績は、どんなに高く評価してもしすぎることはないだろう。家庭は伝統音楽一家で、初めての楽器はホイッスル。8歳のときにはすでにパイパーとしての才能は世に知られるところだった。建設資材会社の優秀な幹部社員として働く傍ら、ダブリンの音楽シーンで活動し、1950年代半ば、オ・リアダと出会い、キョールトリ・クーランに参加。1962年、クラダ・レコードからの依頼でチーフテンズを結成する。1968年には会社を辞め、クラダに入社。以後7年間プロデューサーとして活躍。1988年にはトリニティ・カレッジで音楽の名誉博士号を授与された。

ダブリンの実家には音楽が溢れ、村の小さな地域に大勢のパイパーがいるという、すごい場所だったよ。昔はパーティをよく開いてね。祖父はフルート奏者。床を蹴るダンスはすごくて、近所が驚くほど大きな音をたてた。電気も電話もなく、灯油ランプだけの時代だった。6歳か7歳の時に小さな太鼓をもらったんだ。本当に楽しかったよ。ティン・ホイッスルも同じ頃に吹き始めた。次にイーリアン・パイプ。信じられない、まるでモンスターのようだった。−−−パディ・モローニ


ショーン・ケーン Sean Keane(フィドル)体調不良のため未参加

 1946年ダブリン生まれ。伝統音楽一家の出身で、両親ともにフィドラー。フィドルに対する天賦の才は早くから開花し、全アイルランド・チャンピオンなどいくつもタイトルを獲得したが、生計を立てるため、音楽家としてはクラシックの訓練を受けている。パディ・モローニ、マーティン・フェイと同じく、ショーン・オ・リアダに誘われて、1960年代半ば、キョールトリ・クーランに参加。チーフテンズには1968年に加入した。チーフテンズは肉体的な外見でも極端にヴァラエティに富むバンドだが、一番目立つのはこの人だろう。何しろあの身長に、ギリシアの彫像のような、と形容された風貌だ。メンバーが一列に並ぶとこの人だけぽんと突出る。その背筋をすっくと伸ばし、やや恍惚として瞑目したまま、鮮やかなフィドルを弾いてゆく姿は、荒波を切裂いてゆく強靭な舳先をおもわせる。伝統音楽の収集や後進の指導にも熱心だ。

家には音楽があった。両親ともフィドル、父はアコーディオンやコンサティーナも弾き、母方も父方も全員、楽器が弾けた。だから音楽の道を選ぶのは呼吸をするように自然なことだった。そう、父と母は息をするように自然な態度で音楽に接していた。今の僕があるのはそのおかげだ。−−−ショーン・ケーン


ケヴィン・コネフ Kevin Conneff(バウロン、ヴォーカル、打楽器)

 1945年、ダブリン生まれ。ふだんは一番後ろでバンドのリズム・セクションを支え、時に前に進みでると、巻き舌のテナー・ヴォイスで味わいぶかい喉を聴かせる、童顔の永遠の青年。チーフテンズへの参加は1976年で、シンガーが正式メンバーになったのはこの人だけである。十代の時伝統音楽と出会い、バウロンと、シャン・ノースと呼ばれる古くから伝わるスタイルの歌を身につける。バウロンではこの楽器を現在の隆盛に導いた功労者の一人だ。アイルランドに優れた男性シンガーは数多いが、肩の力が見事にぬけたその飄々とした味わいはなかなかに得難い。ダブリンの伝統音楽の牙城となったトラディション・クラブの創設に関り、チーフテンズのメンバーとはここで交流していた。1960年代後半にはクリスティ・ムーアのソロ・アルバム『プロスぺラス』に参加し、アイルランド音楽の新しい時代の幕を開く一翼を担っている。

僕の育った環境にはアイリッシュ音楽はまったくなかった。家族は誰も楽器を弾けないし、ラジオを聴いてちょっと興味を持った程度だった。60年代初期にフラー・キョール・フェスで楽しい時間を過ごして、すぐに魅了されたんだ。そのフェスティヴァルのおかげでバウロンの人気が上がった。何も弾けない者はボウラン担当さ。僕もフェスで初めて3ポンドのバウロンを買ったんだ。−−−ケヴィン・コネフ


マット・モロイ Matt Molloy(フルート)

 1947年、ロスコモン州バガダリーン生まれ。バンド中最年少でまたもっとも新しいメンバー(と言ってもすでに加入して20年を越える)だが、カリスマという点では一番かもしれない。出身地はフルートの伝統の濃いところで、父親始め、一族にも優れたフルート奏者が多い。8歳でフルートを始め、17歳で全アイルランド・チャンピオン。1970年代半ば、「野獣」と言われたボシー・バンドのメンバーとしてアイルランド音楽に革命を起こす。再編プランクシティにも参加した後、1979年、チーフテンズに加入。長いキャリアの末の円熟はかれの音楽に底知れぬ深みを与えてもいて、近年のマットのスロー・エアの美しさはちょっと形容を絶する。とはいえ、時には秘めたる「狂気」がほとばしり出る時もあって、そういう時、ふだんはどちらかというときっちりと整えられた趣のあるチーフテンズの音楽に、ぎらりとしたエッジを加えている。

父と叔父は南スライゴーのバリモートン出身のフルート奏者。僕らは老人の演奏をできるだけたくさん聴き、必至に曲を覚えたよ。伝統を伝える最良の方法だ。曲は親から子へ、1音ずつ注意深く間違いなく伝えられた。僕の父は厳しくて、変奏を加える時は注意深くやらなきゃいけなかった。自由に吹けるようになるまでにずいぶん時間がかかったな。−−−マット・モロイ


マーティン・フェイ Martin Fay(フィドル)体調不良のため未参加

 1936年、ダブリン生まれ。パディ・モローニとともに二人だけ残ったチーフテンズ創設以来のメンバー。パガニーニの映画を見てヴァイオリン奏者になることを夢見る。当然クラシックの訓練を受け、音楽家としての経歴はオーケストラから始めた人だが、この人の演奏する姿を見ていると、いかにもフィドルを弾くのが三度の飯より好き、というけしきだ。ダンス・チューンももちろん軽々と弾きこなすが、本人としてはむしろスローな曲におもい入れがあるらしい。1950年代にアビー座の座付楽団にいた時にショーン・オ・リアダと知りあい、そのバンド、キョールトリ・クーランに誘われる。これを母体にチーフテンズが生まれるのはご存じのとおり。バンドの中では一番目立たない人ではあるのだが、天才ぞろいのメンバーの中にあって、この人の存在がバンドへの親近感を一段と増しているところもある。バンドで唯一人の愛煙家。

スチュアート・グレンジャーの映画を6、7歳の頃に見て音楽家になりたくなった。映画の内容は理解できなかったけど、映画の中の音楽(パガニーニ)にすぐに夢中になったんだ。それで、単純にフィドルを学びたくなったんだ。−−−マーティン・フェイ

(文:大島豊)


デレク・ベル Derek Bell(ハープ、ピアノ)2002.10.17逝去→訃報のお知らせ

 1935年、ベルファスト生まれ。秀でた額に縁の厚い眼鏡、生まれおちた時すでに着ていたと思われるベストにスーツ。チーフテンズ随一のコメディアンとはその風貌だけではわからない。音楽家としての出発はクラシックのオーボエ奏者でホルンやピアノ、ダルシマーなと多彩な楽器の名手。アルバム『4』でチーフテンズに正式に参加する前は欧米各地の有名オーケストラから引張りだこだった。作曲も手がけ、チーフテンズの音楽のアレンジではパディ・モローニのなくてはならない片腕でもある。ハープはかなり遅く、30代になって手を染めるが、あっという間に習得して、1960年代半ばには人に教えるまでになっていた、というのは本人の天才とともに、楽器との相性が良かったのだろう。バンドで唯一のプロテスタントであり、「夢見る哲学者」であるデレクの存在は、チーフテンズに異質の要素を持ちこみ、その音楽世界をより広く、深くしている。ソロ・アルバムも数多い。

音楽が得意な血筋なんだ。叔母は行進曲を作曲し、楽譜も出版している。家の中に音楽が溢れていたね。僕が音楽を選んだのは幼い頃に目を悪くしたのが大きな理由なんだ。このままでは失明すると診断された。最悪2、3ヶ月後にも。そんな時、親や親類が音の出るおもちゃを与えてくれた。失明しても楽しめるようにね。それが音楽家になった理由だよ。−−−デレク・ベル